【短編小説全10話】第3話:触れたあとに残るもの
朝、目が覚めたとき、最初に思ったのは「軽い」という感覚だった。
身体が軽いわけじゃない。
布団の中が、軽い。
ハルがいた頃は、夜のあいだに何度も体勢を変えた。
重みが移動するたびに、こちらも少しだけ身じろぎをする。
眠りは細切れになるけれど、その細切れが生活だった。
今は、布団が一枚のままだ。
何も動かない。
私はしばらく、そのまま横になっていた。
起きる理由も、起きない理由も、同じくらい弱い。
洗面所で顔を洗う。
水は冷たく、手のひらが少し赤くなる。
タオルで顔を拭いたとき、
ふと、指先に引っかかる感触があった。
毛だ。
細くて、柔らかい。
短い毛。
私は動きを止めた。
引っかかった毛を、指でそっとつまむ。
ハルの毛だ。
たぶん。
「たぶん」という言葉が必要なことが、少し寂しい。
前なら、迷わなかった。
ハルの毛は、どこにでもあった。
ソファの隙間。
クッションの裏。
洗ったはずの服の内側。
掃除をしても、どこかに残る。
残ることに、少し安心していた。
今は、見つけると胸がざわつく。
消えていない証拠なのか、
消え始めている合図なのか、分からない。
私はその毛を、タオルの上に置いた。
落とさないように、丁寧に。
クローゼットを開ける。
着替えを取ろうとして、手が止まった。
黒いセーター。
ハルがよく乗っていたやつ。
抱っこすると、いつもこのセーターに顔を埋めた。
理由は分からない。
匂いなのか、肌触りなのか。
セーターを手に取る。
少し重い。
袖に指を入れた瞬間、
懐かしい感触が、はっきりと戻ってきた。
柔らかくて、温度のない毛の感触。
でも、確かにそこにあった感触。
私は、セーターを胸に抱えた。
抱えた瞬間、呼吸が詰まる。
匂いは、もう薄い。
それでも、ゼロじゃない。
洗剤の匂いの下に、
ほんの少しだけ、別の匂いが残っている。
ハルの匂い、と言い切れるほど強くはない。
でも、知らない匂いでもない。
私は顔を埋めて、深く息を吸った。
吸ってから、後悔した。
後悔しても、もう遅い。
ハルは、触られるのが好きな猫だった。
どこでも、というわけじゃない。
気分と場所と時間が合ったときだけ。
首の後ろ。
背中の真ん中。
尻尾の付け根。
そこを撫でると、
喉の奥で、低い音が回り始める。
私はその音を、何度も確かめるみたいに触った。
触るたびに、ちゃんと返事があった。
今は、触っても返事がない。
それが、一番つらい。
昼過ぎ、ソファに座った。
無意識に、いつもの場所を少し空けてしまう。
ハルは、そこに丸くなった。
丸くなる前に、一度だけこちらを見る。
許可を取るみたいに。
許可なんて、いらなかったのに。
私は、空いたスペースに手を伸ばした。
何もない。
それでも、撫でる動作だけはしてしまう。
空気を撫でる手。
手のひらが、宙を切る。
夕方、洗濯物を畳む。
一枚ずつ、機械的に。
シャツの内側に、また毛を見つけた。
今度は、二本。
私は一瞬、笑いそうになった。
まだ、いるみたいだと思ってしまった。
笑いそうになったことに、すぐ気づく。
気づいて、口元が固まる。
私は毛を指でつまみ、
今度は小さな箱に入れた。
入れた理由は分からない。
捨てられない理由と、同じだ。
夜になって、風呂に入る。
湯気が立ち、視界がぼやける。
湯船に浸かりながら、
指先を見た。
爪の間。
指の腹。
そこに、ハルの毛が絡んでいた記憶がある。
ブラッシングのあと。
撫でたあとの手。
今は、何もない。
布団に入る前、
黒いセーターを畳んだ。
畳んで、しまおうとして、やめる。
代わりに、枕元に置いた。
意味はない。
でも、触れるものがある。
触れたあとに残るものが、
今の私を支えている。
電気を消す。
暗くなる。
目を閉じると、
触れた感触だけが、はっきりする。
温度。
重み。
毛の柔らかさ。
どれも、もうここにはない。
それでも、身体は覚えている。
覚えていることが、
少しだけ、救いだった。
第四話へつづく・・・


