【短編小説全10話】第2話:空になった皿
1.
朝が終わったあとも、部屋は静かだった。
朝が終わると何かが変わると思っていたけれど、そんなことはなかった。
私は台所に立ち、流し台の前でしばらく動けずにいた。
蛇口をひねれば水は出る。
ガスをつければ火もつく。
生活は、こちらの気持ちを待たない。
カウンターの端に、ハルの皿が置いてある。
昨日、洗ったままの白い皿。
縁に小さな欠けがあって、それがどこか誇らしかった。
落としたわけではない。
買った時から、そういう皿だった。
私はその皿を手に取って、また元の場所に戻した。
持ち上げる意味も、戻す意味もない。
ただ、そこにあるという事実だけが、まだ扱える。
2.
いつもの時間に、いつもの癖で冷蔵庫を開けた。
中の光が白く、少し眩しい。
ウェットフードのストックは、まだ残っている。
期限も切れていない。
それを見て、私は一瞬だけ安心しかけた。
安心してしまったことに、すぐ気づいてしまう。
安心する理由が、もうない。
袋を閉める。
冷蔵庫の扉も閉める。
音が、やけに大きい。
3.
ハルは、ごはんの時間に正確だった。
腹時計というより、生活時計だった。
私が台所に立つと、少し遅れて足音がした。
爪が床を叩く音。
それから、私の足元に影ができる。
「はいはい」と言いながら、皿を出す。
ハルは急がない。
座って、待つ。
待っている自分が正しいと思っている顔をする。
その顔が、好きだった。
今は、影ができない。
足元が、やけに広い。
4.
皿を洗う必要はないのに、私は皿を洗った。
使っていない皿を洗う。
水をかけて、スポンジでなぞって、泡を流す。
意味はない。
でも、水に濡れている間だけ、考えなくて済む。
蛇口の音に、ハルはいなかった。
嫌がる顔も、距離を取る動きもない。
私は一人で、蛇口の音を聞いている。
5.
仕事用のパソコンを立ち上げる。
画面が点く。
メールが並ぶ。
文字は読める。
内容も分かる。
でも、どれも少し遠い。
返信しなければいけないものを、後回しにする。
後回しにしている間に、時間が過ぎる。
時間が過ぎることに、苛立ちを覚えない。
苛立つ余裕がない。
6.
昼になっても、空腹は来なかった。
それが、少し怖い。
ハルがいた頃は、昼も一緒だった。
正確には、ハルが昼だと思った時間が、昼だった。
お腹が空いているわけでもないのに、
「お昼にしようか」という顔で見上げてくる。
私はそれに負けて、何かを食べた。
今は、負ける相手がいない。
7.
棚の奥に、ハル用のスプーンがある。
薬を混ぜるための、小さなスプーン。
人間用のものとは分けていた。
分けることに、意味があると思っていた。
私はそのスプーンを見て、引き出しを閉めた。
使わないものが増えていく。
増えていく、という言い方は正確じゃない。
減らなくなっただけだ。
8.
夕方、少しだけ外に出た。
ゴミを出すためだけに。
袋は軽い。
軽い袋を持つことに、まだ慣れない。
階段を降りる途中、知らない猫を見かけた。
黒と白の、境目がはっきりした猫。
目が合った。
一瞬だけ。
その一瞬で、胸の奥がひっくり返る。
似ていない。
ハルとは全然、似ていない。
それでも、猫だった。
9.
家に戻ると、部屋の中は朝と同じだった。
変わっていない。
変わっていないことが、変わっている。
私は台所のカウンターを見た。
ハルの皿が、そこにある。
空だ。
最初から、ずっと空だ。
空の皿は、何も要求しない。
鳴きもしない。
見上げもしない。
それなのに、目に入る。
10.
私は皿を持って、棚にしまおうとした。
指が止まる。
しまったら、今日が終わってしまう気がした。
終わってしまうことが、怖い。
終わらない一日も、同じくらい怖いのに。
結局、皿はそのままだ。
カウンターの端。
少しだけ影が落ちる場所。
11.
夜になって、ようやく少しだけお腹が鳴った。
小さな音。
私は簡単なものを口に入れた。
味は、あまりしなかった。
食べ終わって、自然に皿を洗った。
人間用の皿だけ。
ハルの皿には、触れなかった。
12.
空になった皿は、今日も空のままだ。
それでも、そこに置いてある。
置いてあるだけで、何かを思い出す。
思い出すだけで、今日をやり過ごせる。
私は電気を消し、布団に入った。
明日も、同じような一日が来るだろう。
それでいい。
それしか、できない。
空になった皿は、
今日の私が、生き延びた証拠だった。
第3話へ続く・・・

