【短編小説全10話】最終話:雨上がりの空、琥珀色の約束
1. 包囲網
インターネットカフェの狭いブースで迎えた朝は、鉛のように重苦しかった。 眠れたのかどうかも定かではない。シズクは私の膝の上で、じっと動かずにいる。その小さな体は、嵐の前の静けさを孕んでいるようだった。
「……行こうか」
私はリュックを背負い、シズクをキャリーバッグに入れた。いつまでもここに隠れているわけにはいかない。次の場所へ移動しなければ。 ブースを出て、細い廊下を歩く。すれ違う客の視線に、過剰に反応してしまう。
受付で精算を済ませ、ビルの外に出ようとした、その時だった。
「――見つけたぞ」
背後から、低く、粘着質な声が掛かった。 心臓が跳ね上がる。振り返るまでもない。あの河川敷で聞いた、リーダー格の男の声だ。
ビルのエントランス。自動ドアの向こうには、黒いスーツを着た男たちが数人、壁を作るように立っていた。 逃げ道は、ない。
「昨夜はよくも恥をかかせてくれたな、お嬢さん」
男がゆっくりと近づいてくる。その目は、獲物を追い詰めた肉食獣のように歪んでいた。
「まさか、ネットの検索履歴から居場所がバレるとは思わなかったか? 意外と不用心だな」
私のミスだ。焦りが、判断を鈍らせていた。
「その猫を渡せ。そうすれば、お前のこれまでの逃避行は『ちょっとした家出』として処理してやる。元の平和なOL生活に戻れるぞ」
男の言葉は、甘い毒薬のように聞こえた。 元の生活。A子とのランチ、金曜日のビール、悩みのない週末。 それがどれほど魅力的なものか、私は痛いほど知っている。
けれど。 私は、キャリーバッグを抱える腕に力を込めた。
「……お断りします」
私の声は、自分でも驚くほどはっきりとしていた。
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2. 屋上の決戦
「チッ、交渉決裂か。……おい、上へ連れて行け。ここでは目立ちすぎる」
男の指示で、私は両脇を屈強な男たちに抱え上げられた。抵抗する間もなく、非常階段へと引きずり込まれる。キャリーバッグだけは、死守した。
連れてこられたのは、雑居ビルの屋上だった。 錆びたフェンスの向こうに、朝の光に照らされた街並みが広がっている。私がかつて暮らしていた、あの街だ。
「ここなら、誰にも邪魔されねえ」
リーダーの男が、懐からスタンガンのようなものを取り出した。青白い火花が散る。
「手荒な真似はしたくねえが、そのバケモノ猫が相手じゃ仕方ねえ。お前が痛い目にあえば、そいつも大人しくなるだろう?」
男がジリジリと間合いを詰めてくる。 私は後ずさり、フェンスに背中をぶつけた。もう、後がない。
「シズク……ごめん」
私はキャリーバッグのファスナーに手をかけた。 私が傷つけば、シズクは怒り狂い、あの炎の獣となって暴れ出すだろう。そうすれば、この男たちを排除できるかもしれない。 でも、それは同時に、シズクが決定的に「人間の敵」になってしまうことを意味していた。
「やれ!」
男の号令とともに、スタンガンが私に向かって突き出された。
バヂヂヂッ!
「――っ!?」
私は目を瞑り、衝撃に備えた。 しかし、痛みは訪れなかった。
代わりに感じたのは、猛烈な熱風。 目を開けると、私の目の前に、巨大な赤橙色の炎の壁が立ちはだかっていた。
『グルルルルゥゥゥ……!!』
キャリーバッグから飛び出したシズクが、瞬時にあの巨大な炎の獣へと変貌し、私を庇うように立っていたのだ。 その姿は、河川敷で見た時よりもさらに大きく、激しく燃え盛っていた。怒りの感情が、そのまま炎の勢いとなっているようだった。
「ひ、ひいぃっ! また出やがった!」
「隊長! こいつ、ヤバすぎます! 手に負えません!」
男たちが腰を抜かし、後退する。スタンガンを持っていたリーダーの男でさえ、顔を引きつらせて震えている。
シズクの炎は、屋上のコンクリートを焦がし、空気を歪ませていた。 このままでは、このビルごと燃え尽くしてしまうかもしれない。シズク自身も、怒りの炎に飲み込まれそうに見えた。
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3. 琥珀色の約束
「シズク! やめて!」
私は叫んだ。しかし、獣の咆哮にかき消されて届かない。 シズクは完全に理性を失い、ただ目の前の敵を殲滅する破壊の化身となっていた。
どうすればいい? どうすれば、シズクを止められる?
私は、炎の獣の背中を見つめた。 燃え盛る炎の向こうに、あの小さな、雨に濡れて震えていた子猫の姿が重なって見えた。
(……私が、受け止めなきゃ)
恐怖はあった。あの炎に触れれば、ただでは済まないだろう。 でも、それ以上に、シズクを独りにしたくなかった。あの子の怒りも、悲しみも、業も、すべて私が一緒に背負うと決めたのだから。
私は、一歩踏み出した。 炎の熱気が、肌を焦がす。
「美咲!? 何をしている、離れろ!」
男の誰かが叫んだが、私は構わず、炎の獣へと歩み寄った。
そして、燃え盛るその体に、そっと手を触れた。
「……大丈夫だよ、シズク」
ジュッ、と手のひらが焼ける音がした。激痛が走る。 けれど、私は手を離さなかった。そのまま、炎の獣の首元に抱きついた。
「もういいよ。怒らなくていい。私がいるから」
私の涙が、炎に落ちて蒸発する。
「あんたがバケモノでも、世界を敵に回しても、私はあんたの味方だから。……だから、帰っておいで」
私の言葉が届いたのか、それとも私の体温を感じたのか。 炎の獣の動きが止まった。
『……ミ、サキ?』
頭の中に、直接声が響いた。あの夢の中で聞いた声だ。
獣がゆっくりと私の方を向く。巨大な琥珀色の瞳が、私を見つめていた。その瞳から、怒りの色が消え、深い悲しみと、戸惑いの色が浮かんでいた。
『私は、君を傷つけてしまう……』
「ううん。これは、私が選んだ傷だから」
私は、焦げた手のひらで、獣の頬を撫でた。
「だから、ずっと一緒だよ」
次の瞬間。 まばゆい光が屋上を包み込んだ。
男たちの悲鳴。 そして光が収束していく。
私が目を開けると、そこには、元の小さな茶トラの姿に戻ったシズクが、私の腕の中でぐったりと横たわっていた。
屋上には、私たち二人きりだった。 男たちは、あの光に恐れをなして逃げ去ったようだった。二度と、私たちに関わろうとはしないだろう。あの恐怖が魂に刻み込まれたはずだから。
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4. エピローグ:雨上がりの空
数ヶ月後。
私は、とある地方の海沿いの町にいた。 潮風で錆びついた小さなアパートの二階。窓からは、穏やかな海が見渡せる。
「シズク、ごはんよ」
私が声をかけると、窓辺で日向ぼっこをしていたシズクが、ゆっくりと伸びをして近寄ってきた。 あの壮絶な夜が嘘のように、今のシズクは普通の、少し甘えん坊な猫だ。
私の右手のひらには、火傷の痕が白く残っている。 これが、私たちが交わした契約の証。
あの夜、私は全てを捨てた。 都会の生活も、安定した仕事も、友人たちとの繋がりも。 A子には、公衆電話から一度だけ「元気でね。探さないで」とだけ伝えた。
彼女は泣いていたけれど、私は謝らなかった。これが私の選んだ道だから。
今は、小さなデザイン事務所でアルバイトをしながら、細々と暮らしている。 給料は安いし、贅沢はできない。社会の片隅で、息を潜めるような生活だ。
けれど、私の心は穏やかだった。
「……にゃあ」
シズクが私の膝に飛び乗り、ゴロゴロと喉を鳴らす。 その温もりを感じながら、私は窓の外を見た。
昨夜降っていた雨は上がり、空には大きな虹がかかっていた。
世界は残酷で、理不尽で、危険に満ちている。 私たちはこれからも、影の世界で生きていかなければならないかもしれない。
でも、大丈夫。 私には、この最強のバディがいる。
私はシズクの頭を撫でた。シズクが顔を上げ、私を見つめる。 その琥珀色の瞳は、雨上がりの空のように澄み渡り、私たちの未来を静かに映し出していた。
「これからもよろしくね、私の猫(シズク)」
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【最後に】
読者の皆様へ
『雨の夜、拾ったのは琥珀色の瞳。』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
第1話の雨の夜の出会いから、この最終話の雨上がりの空まで。美咲とシズク、二人の決して平坦ではない旅路を、こうして皆様に見守っていただけたことに、心から感謝申し上げます。
「普通の幸せ」を手放し、傷を負いながらも「影の世界」で共に生きることを選んだ二人の姿が、皆様の心に少しでも何かを残せていたら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
小説としての物語はここで一区切りとなりますが、「琥珀色の瞳」のプロジェクトは、まだまだ終わりません。 物語の世界は、これから「音」の世界へと広がっていきます。
🎵 今後の展開について
すでにお届けしている楽曲に加え、今後も全話分の楽曲を順次制作・公開していきます。それぞれの章に込められた感情や風景を、音楽で表現していきます。
🎥 さらに、一部の楽曲はMV(ミュージックビデオ)化も予定しています! 文字だけでは伝えきれなかったシズクの躍動や、二人の世界の空気を、映像でもお届けする予定です。
文字の世界から、音と映像の世界へ。形を変えて続いていくシズクと美咲の物語を、これからも楽しみにしていただけたら嬉しいです。
✨ そして、未来へ
音楽プロジェクトと並行して、実はすでに次回作の構想も動き出しています!
全く新しい物語をお届けできるよう、水面下で準備を進めています。こちらも準備が整い次第お知らせしますので、ぜひ楽しみにお待ちいただければと思います。
ここまでお付き合いいただき、長い間本当にありがとうございました!
Thank you so much for reading! xoxo


