【短編小説全10話】第八話:運命の岐路、選択を迫る二つの世界

1.

朝焼けが、河川敷を青から茜色へと染めていく。 その美しさすら、今の私には残酷に感じられた。

私は、橋の下の硬い地面で、膝を抱えて座っていた。一睡もできなかった。 腕の中には、キャリーバッグに入ったシズクがいる。昨夜のあの巨大な炎の獣が嘘のように、今はただの小さな茶トラの猫として、穏やかな寝息を立てている。

「……これから、どうしよう」

声に出すと、不安が形を持って襲いかかってくるようだった。 帰る家はない。あの男たちは、きっとまだ私たちを探している。会社にも行けない。 私は一夜にして、すべてを失ったホームレスになってしまったのだ。

スマートフォンを見る。電源を入れると、通知が雪崩のように押し寄せてきた。 会社の上司からの不在着信。 そして、A子からの大量のLINE。

『美咲!? 大丈夫!? ニュース見たよ! 近所で騒ぎがあったって……』

『連絡して! お願い!』

『今どこ!? うちに来て!』

A子の切羽詰まったメッセージを見て、涙が溢れた。 頼りたい。温かい場所で、温かいものを食べて、全部話してしまいたい。 でも。

(……ダメだ。巻き込めない)

昨夜のシズクの姿を思い出す。あの圧倒的な力。あれは、人の世の理(ことわり)を超えたものだ。 私と一緒にいるということは、A子まで、あの危険な「向こう側の世界」に引きずり込むことになる。

私は、震える指で電源を切った。

「ごめん、A子……」

私は、本当の意味で、独りになったのだと痛感した。

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2.

人目を忍んで移動し、なんとか辿り着いたのは、古びたビジネスホテルの狭いシングルルームだった。 ペット不可だろうが構っていられなかった。幸い、フロントの老人はテレビに夢中で、リュックに隠したキャリーバッグには気づかなかった。

部屋に入り、鍵とチェーンをかけた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。

「……はぁっ、はぁっ……」

緊張の糸が切れ、泥のような疲労が押し寄せてくる。

シズクをキャリーから出すと、シズクは部屋の中を軽く一周し、ベッドの真ん中に陣取った。 そして、私をじっと見つめる。 あの、すべてを見通すような琥珀色の瞳。

「……ねえ、シズク」

私は床に座り込んだまま、シズクに話しかけた。

「あんたは、何者なの? ……私の知ってるシズクじゃないの?」

シズクは答えない。ただ、ゆっくりとまばたきをした。 その仕草は、いつもの可愛い愛猫のそれだった。けれど、私は知ってしまった。その小さな体の中に、どれほど強大で、恐ろしい力が眠っているかを。

私は、シズクに触れるのが怖かった。 あの絹糸のような温もりは、本当は灼熱の炎だったのではないか。そう思うと、指先が冷たくなった。

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3.

いつの間にか、私は床で眠ってしまっていたようだ。 奇妙な夢を見た。

私は、どこまでも続く真っ白な空間に立っていた。足元には、水面のように静かな床が広がっている。 目の前に、シズクがいた。 けれど、その姿は猫ではなかった。

人の形をした、ぼんやりとした光の集合体。 性別も年齢もわからない。ただ、その顔の部分にある二つの琥珀色の光だけが、それがシズクであることを示していた。

『――美咲』

声が聞こえたわけではない。頭の中に、直接意識が流れ込んでくるような感覚。

『怖がらないで』

「……シズク、なの?」

『そうだよ。でも、これが私の本当の姿というわけでもない。君に見えやすいように、形を変えているだけ』

光の存在は、静かに私に語りかけた。 自分は、遥か昔から存在する、ある種のエネルギー体であること。 傷ついた魂や、世界の歪みを修復するために、様々な姿をとって現れること。 そして、今回はたまたま、雨の日に死にかけていた子猫の体を借りたこと。

『美咲。君は私の「器」を助けてくれた。だから私は、君の壊れていた心を修復した。それが私の恩返しだった』

「……うん。ありがとう。私、本当に救われたよ」

『でも、私の力は強すぎる。人の世の欲望を引き寄せ、歪みを生んでしまう。昨夜のように』

光の存在が、少し揺らいだように見えた。

『私は、ここを去らなければならないかもしれない。これ以上、君を危険な目に遭わせないために』

「えっ……?」

心臓が、ドクンと跳ねた。

『君は、元の世界に戻れる。A子の元へ行き、仕事に戻り、普通の幸せな生活を送るんだ。私の記憶は、薄れていくだろうけど』

それが、一番安全で、賢明な道だと、頭では理解できた。 けれど、私の心は、激しく拒絶していた。

「……嫌だ」

『美咲?』

「嫌だよ。シズクがいない世界なんて」

私は、光の存在に向かって叫んでいた。

「あんたが何者でもいい! バケモノだって構わない! 私は、あんたがいてくれたから、ここまで来れたの!」

涙が、止まらなかった。

「普通の幸せなんて、もういらない。私は、シズクと一緒にいたいの!」

光の存在は、しばらく沈黙した。 やがて、琥珀色の光が優しく強く輝いた。

『――それが、君の選択?』

「そうだよ。私の、意思だ」

『分かった。……覚悟して。私が君と共にいる限り、君の世界は二度と元には戻らない』

光の存在が、私に向かって手を差し伸べた。 その手は、燃えるように熱く、そして、泣きたくなるほど温かかった。

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4.

「……っ!」

ガバッと跳ね起きた。 狭いホテルの部屋。安っぽいカーテンの隙間から、夕暮れのオレンジ色の光が差し込んでいる。

「……夢?」

私は、ベッドを見た。 シズクが、そこにいた。 いつもの、小さな茶トラの姿で、ちょこんと座り、私を見つめている。

けれど、その琥珀色の瞳は、夢の中で見たあの光と同じ、強い意志を宿していた。 もう、言葉はいらなかった。

私はベッドに上がり、シズクを強く抱きしめた。 温かい。柔らかい。そして、力強い鼓動。

「……行くよ、シズク」

私は決めた。 A子のいる「光の世界」には、戻らない。 私は、この小さな、けれど偉大な存在と共に、「影の世界」を歩いていく。

どんな危険が待っていても。世界中を敵に回しても。 この選択が、私の運命なのだと、腹を括った。

「まずは、ここを出よう。彼らが追いつく前に」

私はリュックを背負い、シズクをキャリーバッグに入れた。 部屋を出る時、もう一度だけ、振り返った。 そこには、つい昨日まで「普通のOL」だった私の抜け殻が、置き去りにされているような気がした。

ドアを閉める音は、私の新しい人生の、覚悟の号砲のように響いた。

第九話へ続く・・・

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