【短編小説全10話】第四話:失われた約束と、絹糸のような温もり

1.

モヤシと豆腐の鍋。 「美味しいね、シズク」 私は、自分に言い聞かせるように、熱い湯気の向こうで微笑んだ。

引っ越しから二週間。生活は、完全に軌道に乗っていた。 と言っても、それは「貧困生活の軌道」だ。 家賃を払い終えた後の残高は、48,000円。月末まで、この金額で生活を維持し、シズクのご飯も確保しなければならない。

だが、驚くべきことに、美咲の心は以前よりもずっと満たされていた。

その理由は、二つある。 一つは、隣にシズクがいること。 もう一つは、仕事が楽しいということだ。

第3話で、シズクに導かれてトラウマを直視した美咲は、デザインコンペの案件に猛烈な勢いで取り組んでいた。過去の失敗で捨てたアイデアの「種」を、新しい知識と経験で育てていく作業は、苦しくも充実していた。 「あの時逃げなければ、こんな景色が見られたんだ」 毎日、終電ギリギリまで会社に残り、家に帰るとすぐにシズクの世話をし、またアイデアを練る。睡眠時間は削られたが、あの頃の「使い捨ての今日」とは違う、明確な目標と希望に満ちた日々だった。

「このアイデア、結構いけそうだと思わない?」 私は、パソコンで作成中のデザインラフを、シズクに向けて見せた。 シズクは、画面をじっと見つめた後、「ニャア」と短く鳴いた。 それは、肯定の相槌にも、単なる返事にも聞こえる。けれど、美咲にとっては、シズクは自分の最大の理解者だ、という確信があった。

コンペの期限まで、あと一週間。

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2.

金曜日の夜。 会社からの帰宅後、私は久しぶりにSNSを開いた。 仕事以外で他人と接する時間が極端に減り、私は自分のアカウントをほぼ放置していた。

「……あ」

画面のタイムラインをスクロールした指が、止まった。 そこには、見覚えのある、そして、最後に見たのは二年前になる、親友のA子(仮名)のアカウントがあった。

A子は、美咲のデザイン部時代の同期であり、一番の親友だった。 美咲があのコンペで失敗し、周囲から孤立していた時も、唯一、美咲を擁護してくれたのがA子だった。 しかし、その後の美咲の態度が原因で、二人の間には亀裂が入った。

A子は、「あなたは自分の才能に逃げてるだけだ」と美咲を激しく叱責した。 美咲は、「才能がないから、私は失敗したのよ!」と怒鳴りつけ、それ以来、連絡を絶った。

美咲にとって、これは仕事のトラウマと同じくらい、深い心の傷となっていた。 あの失敗は「仕事」だけではなく、「友情」という財産まで失わせた。

A子の投稿は、数時間前のものだった。 そこには、美咲が昔から憧れていた海外の有名デザイン事務所のエントランスで、輝くような笑顔を浮かべるA子の写真があった。 『夢、叶いました!』という短いコメントと、無数の「いいね!」。

美咲の心の中に、黒い感情が広がった。 それは、祝福ではなかった。 「……ずるい」 「私があんなことにならなければ、二人で一緒に目指せたはずなのに……」

敗北感、嫉妬、そして、強烈な寂しさ。 美咲は急いでスマホを閉じ、顔を覆った。 仕事のトラウマは乗り越えられた。だが、人間関係のトラウマは、まだ深く根を張っていた。

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3.

その夜、シズクの様子がおかしかった。 いつもなら、夜ごはんに目を輝かせ、皿の前でちょこんと座っているはずなのに、今日は一向に近づこうとしない。 私がフードの皿を差し出しても、シズクは匂いを嗅ぐだけで、そっぽを向いてしまった。

「シズク? どうしたの? お腹空いてない?」 不安になり、私はシズクの身体を触ってみた。熱はない。 でも、昨日まであんなに元気だったのに、今日のシズクは、毛布の上で丸くなり、ほとんど動かない。

「まさか、病気……?」 私の貯金は、もう残りが少ない。動物病院に連れて行けば、数千円~一万円は飛ぶだろう。 シズクのためなら、もちろん払う。けれど、このギリギリの生活の中で、それは致命的な出費だ。

私は、動揺と自己嫌悪に襲われた。 (私が無理に引っ越しさせたからだ) (私が金銭的に余裕がないから、栄養のあるものを食べさせてあげられないからだ)

美咲の不安が伝わったのか、シズクは弱々しく「ミャア……」と鳴いた。 私は、すぐにシズクをタオルでくるみ、抱き上げた。

「ごめんね。すぐに病院に連れて行くから、ちょっとだけ待っててね」 私は、財布の中身を確認し、残りの小銭をかき集めた。

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4.

夜間の動物病院は、高額だった。 診察と簡易的な検査で、9,800円。

「特に異常はありませんね。心臓も肺も綺麗です。ただ、少しストレス性の胃腸の疲れがあるかもしれません。環境の変化かな。一晩様子を見てください」 そう言われ、美咲は安堵と、さらに深まる不安を覚えた。

異常がないなら、なぜ? そして、この出費。残金は、38,200円になってしまった。

「ごめんね、シズク。もう、お豆腐生活しかさせてあげられないかも」 私は、帰宅後、静かに泣いた。

シズクは、ベッドに戻された後も、食卓の下に敷かれた私のスリッパの上で、じっと丸まっていた。 食欲はない。けれど、体温は温かい。

私はシズクを抱き上げ、毛布の中にくるみ、自分の胸の上にそっと乗せた。 「……お願いだから、元気になって」

その瞬間、シズクの喉が、いつもより深く、そして長く、ゴロゴロ……と鳴り始めた。 その振動は、私の薄い胸郭を通して、心臓の奥深くまで響いてきた。

それは、まるで絹糸(きぬいと)だった。 繊細で、なめらかで、しかし、決して途切れない、確かな温もりの振動。 その絹糸のような温もりが、私の内側、A子の投稿を見て傷ついた場所、過去の失敗で凍り付いた場所を、優しく、優しく、撫でて溶かしていく。

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5.

シズクの温もりに包まれながら、美咲は再び、A子との最後の記憶の「フラッシュバック」を体験した。

喧嘩の原因は、「旅行」だった。 美咲とA子は、お互いのデザイン事務所への就職を祝して、卒業後にヨーロッパを周遊しようと計画し、二人で旅行資金をコツコツと積み立てていた。

美咲がコンペで失敗し、左遷された直後、A子は美咲に言った。 『もう、旅行なんて行く気分じゃないでしょ。お金、精算しよう』

美咲は、その言葉に激怒した。 「私が失敗したから、旅行も中止なの!? 私のせいだって言うの!?」 『そうじゃない! いつか行こう。でも、今のあなたじゃ、楽しい思い出なんて作れないわ』 「……私の何が不満なのよ!」 『あなたは、自分の失敗を認めるのが怖くて、私に八つ当たりしてるだけよ!』

美咲は、A子の言葉を「私への攻撃」だと受け取り、連絡を絶った。 だが、今、シズクの絹糸のような温もりの中で思い出すと、A子の瞳が「悲しみ」に満ちていたことが、はっきりと分かった。

(A子は、私を攻撃したんじゃ、ない……) (私の心が壊れるのが、怖かったんだ)

その瞬間、シズクの琥珀色の瞳が、私の顔を覗き込んだ。 そして、第2話の時と同じように、一瞬だけ、淡い光を放った。 しかし、今回は光の粒は舞わない。 光は、私の心の中にあった、「失われた約束」の記憶を、ただ鮮明にしただけだった。

「……そうだ。旅行資金……」

美咲は、ガバッと身体を起こした。 二人が共同で貯めていた旅行資金。A子は「精算しよう」と言ったが、美咲が頑として応じなかったため、そのお金は、まだ美咲の給与口座に、二人の名義のままで残っているはずだ。

「……私、あの時、本当に最低だった」

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6.

シズクは、嘘のように穏やかな寝息を立て始めた。食欲不振が嘘のように、表情が和らいでいる。 美咲は、自分の愚かさに涙を流しながらも、シズクがなぜ急に体調を崩したのかを悟った。

(シズクは、私の心の影が、まだ消えていないことを知っていたんだ) (お金を増やしたり、物件を見つけたりするよりも、私が孤独に沈むことの方が、シズクにとってストレスだったんだ)

シズクの温もりは、物理的な援助ではなく、美咲の「心」の修復作業だった。 シズクは、美咲が過去を直視しない限り、美咲の心から発する「孤独の冷気」によって、自分自身が体調を崩していたのだ。

私は、パソコンに向かい、SNSのA子のページを開いた。 謝罪の言葉を打とうとして、指が止まる。 「ごめんなさい」だけでは、きっと伝わらない。

その時、シズクが、私のキーボードの手前にそっと座った。 「ニャ」 美咲は、意を決した。謝罪よりも、先にすべきことがあった。

私は、A子の旅行資金の口座を調べ、すぐにA子の連絡先にメッセージを送った。

美咲: 久しぶり。A子がデザイン事務所の夢を叶えたの、本当にすごいね。おめでとう。

美咲: ごめん、ずっと連絡できなかった。

美咲: あの時、二人で行こうって約束した場所の、新しい情報を見つけたよ。 また一緒に、いつか旅の計画を立ててみたい。あの時の、失われた約束を、今からでも少しずつ拾っていきたいんだ。

送信ボタンを押す。 夜明け前の、静寂。 美咲は、シズクを抱きしめ、返事を待った。

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7.

翌朝。 朝日で明るくなった部屋。 美咲は、スマホのアラームで目を覚ました。 そして、LINEの通知を見た。

A子からの返信は、夜中の3時に届いていた。

A子: 美咲……。うん。見たよ。ありがとう。

A子: 私も、ずっと連絡したかった。

A子: 「絹糸のような温もり」を感じられるような、新しい場所を見つけたら、また話そうよ。

「……絹糸のような温もり?」

美咲は、そのフレーズにハッとした。 (なんで、A子が、私の心の温もりを、こんな言葉で……?) 偶然にしては、あまりにもできすぎた返信。

美咲はシズクを見た。 シズクは、食欲不振が嘘のように、勢いよく朝ごはんを食べている。元気いっぱいだ。 そして、美咲がその場に立ち尽くしていると、食べ終わった皿から顔を上げ、満足そうに「フン」と鼻を鳴らした。

シズクは、ただの猫ではない。 物理的な幸運だけでなく、美咲の「心」と「人間関係」までを修復する、孤独の修理工だった。

美咲は、涙ぐみながら、A子への返信を打ち始めた。 「うん。話そうよ。たくさん、話したいことがある」 失われた約束は、シズクの絹糸のような温もりに包まれ、確かに修復への一歩を踏み出した。

第五話へ続く・・・

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