【短編小説全10話】第ニ話:夜ごと響く、ささやかな足音の秘密
1.
あの嵐のような夜が嘘だったかのように、土曜日の朝日は、薄いカーテンを突き抜けて容赦なく私、橘 美咲(たちばな みさき)の顔を照らした。
(……夢じゃ、なかった)
重い瞼をこじ開けると、視界の端、枕元に置いた段ボールの即席ベッドの中で、小さな茶トラが丸まっていた。 「……スゥ……スゥ……」 規則正しい、穏やかな寝息。 昨日までの冷たい雨とは無縁だったかのように、その毛並みは柔らかく乾き、陽の光を浴びて淡いオレンジ色に輝いている。
シズク。私が付けた、仮初めの名前。
その存在を視覚で再確認した瞬間、決意の重さが、鉛のように胃の腑に沈んだ。
「……引っ越さなきゃ」
声に出すと、現実は一気に解像度を増して私に襲いかかってくる。 284,500円。 それが私の全財産。 ペット禁止のこのアパートから、ペット可の物件へ。この東京砂漠で、その行為がどれほど無謀な「賭け」であるか。
私はゆっくりと起き上がり、シズクを起こさないよう、忍び足でキッチンに向かった。 コーヒーを淹れる。豆から挽くような趣味はない。インスタントの粉末をマグカップに落とし、沸騰した湯を注ぐ。立ち上る苦い香りが、ようやく私を覚醒させた。
(大丈夫。大丈夫) 呪文のように繰り返す。 (金曜の夜、あのままあの子を見捨てて、土曜の朝、温かいベッドで目覚める自分を想像できる?)
――できない。
それだけで、理由は十分だった。 私はマグカップを片手に、ノートパソコンを開いた。 戦いの始まりだ。
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2.
「ペット可、敷金礼金ゼロ、家賃6万円台……」
検索窓に打ち込むたび、現実は「該当物件0件」という冷たい文字を叩きつけてくる。
「分かっては、いたけど……」
ため息が漏れる。 まず、「ペット可」という条件を付けただけで、物件数は十分の一以下に激減する。 さらに、私の予算。 今のアパート『第二さくら荘』は、駅徒歩12分、築30年の木造だが、管理費込みで58,000円。これは奇跡的な安さだ。 ペット可物件の相場は、同じ条件でも1.5倍近くに跳ね上がる。
クリックするたびに突きつけられるのは、 「家賃9万円(管理費別)」 「駅徒歩30分(バス利用)」 「築45年(風呂なし)」 といった、絶望的な選択肢ばかり。
「……これじゃあ、引っ越した先で生活ができない」
手取りは21万円。奨学金の返済が3万円。家賃が9万円になれば、残りは9万円。そこから光熱費、通信費、食費……。 シズクの病院代やご飯代もかかる。
(……無理、かも)
昨日あれだけ固めた決意が、数字という名のハンマーで脆くも砕け散っていく。 膝の上で、シズクが「みゃ?」と小さく鳴いた。私がパソコンに向かって唸っているのを、不安そうに見上げている。 その琥珀色の瞳が、私をまっすぐに見つめていた。
「……ごめん。弱音吐いちゃダメだよね」
私はシズクの頭を撫で、再び画面に向き直った。 「条件を変えよう。……エリアを、広げる」
今住んでいる沿線は諦める。通勤時間が1時間半から2時間になっても構わない。埼玉、千葉、神奈川。都内へのアクセスが可能なギリギリのラインを探る。 文字通り、血眼になって探した。
土曜日が丸一日、溶けていった。 日曜日の午後、ようやく一件、現実的な候補が見つかった。 埼玉県の、とある駅。急行は止まらない。駅から徒歩22分。築38年のアパート。 家賃63,000円。管理費3,000円。 そして、初期費用。『敷金0・礼金0』。 いわゆる「ゼロゼロ物件」と呼ばれる、訳あり覚悟の物件だ。
貯金28万のうち、仲介手数料、前家賃、保証会社利用料、火災保険料、鍵交換費用……それらで、おそらく20万円近くが消し飛ぶ。 残りは8万円。 新しい家具など買う余裕はない。引っ越しも、業者を頼まず、レンタカーで自力でやるしかない。
「……でも、これしか、ない」
私は、震える手で、その物件を扱う不動産屋に「内見希望」のメールを送った。
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3.
問題は、ここからだった。 「ペット可」と書かれていても、実際には「猫は不可(柱で爪とぎをするから)」「小型犬一匹のみ」というパターンが多い。 さらに、私のような低所得の単身女性は、入居審査で弾かれる可能性も高い。
月曜日。 会社を半休し、私は不動産屋のカウンターに座っていた。 「橘さん、ですね。……拝見しました、この物件」 40代くらいの、疲れた顔色の男性店員が、気だるそうに資料をめくった。
「結論から言いますと、この物件、昨日、先行申し込みが入っちゃいましたね」
「……えっ」
頭が、真っ白になった。 「そ、そんな……」 「ゼロゼロ物件は、足が速いんですよ。皆さん、考えることは同じですから」 彼は悪びれもせず言った。
「一応、他にも探してみますが……」 店員がパソコンを叩く。 「……橘さんのご予算だと、やはり厳しいですね。ペット可で、初期費用を抑えたいとなると……正直、今すぐにご紹介できるものは、ありません」
無慈悲な宣告だった。 希望が、音を立てて崩れ落ちた。
「……そう、ですか……」 お礼を言う気力もわかず、私はふらふらと不動産屋を出た。 外は、あの日のような雨ではないが、どんよりとした曇り空が広がっていた。
(どうしよう) (どうしよう、シズク)
私は、この子を守ると決めたのに。 それなのに、私には、この子と暮らす部屋一つ、用意してあげられない。 情けなくて、涙が滲んだ。
『第二さくら荘』の大家さんは、神経質なことで有名だ。 隠し通せるのは、あと数日。 シズクの声が、足音が、いつバレるか。その恐怖に怯えながら暮らすしかないのか。 それとも、最悪の選択――里親を探す道に、戻るしかないのか。
「……いやだ」
それだけは、絶対に、嫌だ。 私は、あの温もりを知ってしまったのだから。
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4.
その夜、私はすっかり疲れ果ててアパートに戻った。 「ただいま、シズク……」 返事はない。 シズクは、私が用意した段ボールの中で、静かに丸まっていた。
「……ごめんね、今日も、ダメだった」
シズクはゆっくりと顔を上げ、私をじっと見つめた。 その琥珀色の瞳は、まるで私の絶望をすべて吸い取ってしまうかのように、深く、静かだった。
私は、買ってきたコンビニ弁当を無言で口に運び、シャワーを浴び、早々に布団にもぐりこんだ。 もう何も考えたくなかった。 明日、また会社に行き、休憩時間に、あの絶望的な検索を繰り返すのだ。
(疲れた……)
意識が、泥のように沈んでいく。 雨音も聞こえない、静かな夜。
――どのくらい、時間が経っただろうか。
チリ……、チリリ……
不意に、耳慣れない音で、浅い眠りから引き戻された。 「……ん……?」
時計を見る。午前2時44分。 部屋は真っ暗だ。 (何の音……?)
耳を澄ます。 それは、金属が擦れるような、あるいは、小さな鈴が鳴るような、微かな音だった。
チリ……、チリ、チリ……
音は、部屋の隅、私がノートパソコンを置いている小さなローデスクの方から聞こえてくる。
(……シズク?)
枕元の段ボールを見る。 中は、もぬけの殻だった。
心臓が、ドクン、と跳ねた。 暗闇に目が慣れてくると、ローデスクの前に、小さな影が座っているのが見えた。 シズクだ。
「シズク……? 何してるの……?」 声をかけようとして、私は息をのんだ。
シズクは、ただ座っているのではなかった。 あの日、不動産屋のサイトを開いたまま閉じられた、私のノートパソコン。 その閉じられた天板の上に、シズクは、ちょこんと前足を乗せていた。
そして、その身体が。
(……光、ってる……?)
暗闇の中で、シズクの茶トラの毛並みが、月の光を反射しているのとは違う、淡い、金色のオーラのようなものに包まれている。 それは蛍のように明滅し、シズクが前足を動かすたび、例の「チリチリ」という音と共に、小さな光の粒が舞っているように見えた。
チリ、チリリ……
シズクは、まるで何か難しい作業に集中しているかのように、真剣な顔でパソコンを見つめている。 その琥珀色の瞳は、暗闇の中で、二つの小さな満月のように爛々と輝いていた。
(……なに、あれ……)
恐怖、というよりは、あまりに非現実的な光景に、私は金縛りにあったように動けなかった。 あれは、猫じゃない。 少なくとも、私が知っている「猫」という生き物ではなかった。
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5.
ピピピッ、ピピピッ
電子音が鳴り響き、私は勢いよく飛び起きた。 スマートフォンのアラームだ。午前6時30分。
「……はっ!?」
慌てて周囲を見渡す。 窓の外は、白み始めている。 「……夢?」
枕元の段ボールを覗き込むと、シズクが、昨夜とまったく同じ場所で、静かに丸まって寝息を立てていた。 ローデスクの上には、ノートパソコンが置かれているだけ。光る猫も、不思議な音も、どこにもない。
(……夢だ。疲れてるんだ、私)
昨日の絶望と、シズクへの申し訳なさが、そんな幻覚を見せたのだ。 私は大きく息を吐き、重い身体を起こした。 会社へ行かなくては。
「……シズク、おはよう」 寝ているシズクの頭をそっと撫でる。温かい。普通の、子猫の体温だ。
ルーティンのように顔を洗い、コーヒーを淹れる。 そして、出社までのわずかな時間、昨日と同じようにノートパソコンを開いた。 (もう一度だけ……) (奇跡でもいい。一件だけでも、新しい物件が……)
私は、昨日開いたままだった不動産サイトのページで、「更新」ボタンをクリックした。
「新着:1件」
その文字が目に飛び込んできた瞬間、心臓が掴まれた。
「……!」
慌ててクリックする。 それは、昨日まで影も形もなかった物件だった。
【◯◯線 △△駅 徒歩10分】 【家賃:61,000円(管理費込)】 【築25年 / 1K / オートロック(簡易)】 【★特記事項:ペット相談可(猫可)、敷金・礼金ゼロ】
「…………うそ」
声が、震えた。 駅からの距離、家賃、初期費用。 昨日、私が血眼になって探しても、絶対に両立できなかった条件が、すべて揃っている。 築年数も、昨日までの絶望的な物件よりずっと浅い。
(……タイミングが、良すぎる)
脳裏に、昨夜の「夢」が蘇る。 あの、金色の光。 チリチリ、という不思議な音。 パソコンに置かれた、小さな前足。
私は、寝ているシズクを振り返った。 シズクは、いつの間にか目を覚まし、私をじっと見つめていた。 あの、すべてを見透かすような、琥珀色の瞳で。
そして、まるで私の心の声に応えるかのように、小さく、けれどはっきりと、こう鳴いた。
「ニャア(行け)」
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6.
私は、何をためらうこともなく、スマートフォンの電話帳を開いていた。 会社に、半休の連絡を入れる。 「体調不良で、午前中お休みをいただきます」 嘘ではない。心臓がバクバクして、正常な状態ではなかった。
そして、電話が繋がるやいなや、昨日とは違う不動産屋(その物件の専任業者だった)に、叩きつけるように言った。
「今朝、サイトに掲載された△△駅の物件! すぐに内見させてください! 今日、決めます!」
電話口の向こうで、営業マンが少し驚いたような声を上げた。
「……これが、秘密」 私は、シズクを抱き上げた。 小さな身体は、まだミルクの匂いがする。 「……夜ごと響く、ささやかな足音の秘密」
シズクは、私の腕の中で、ゴロゴロと喉を鳴らした。 それは、ただの子猫の甘える音ではなかった。 絶望の縁にいた私を、新しい道へと導く、小さなエンジンの音。
(この子は、恩返しをしている)
あの雨の日に、私が差し出した安物のジャケットと、なけなしの貯金。 その「選択」に対する、恩返しを。
私はシズクの額に顔をうずめた。 「ありがとう」 まだ、何も始まっていない。審査も通るか分からない。 けれど、確かに感じた。
――私たちは、この部屋から出られる。 この子と、二人で。
第三話へ続く・・・


